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桑山弥三郎

「世界の帆船」飛び出す絵本 Sailing Ships Meer-McGowan Viking
「世界の帆船」飛び出す絵本 Sailing Ships Meer-McGowan Viking

希望・富・神秘の帆船 Sailing Ships

帆船の始まりは、紀元前3000年、エジプトの壷絵にみることができる。一本マストに一枚の帆をかけた、パピルス船だった。古代エジプトの他に、ギリシャ、ローマに、古くから帆船があったことを、壷絵や石に刻まれたレリーフによって、博物館で知ることができる。

一世紀キリスト教の布教に務めたパウロの船旅

パウロは、何千キロも宣教旅行した中で、何回も乗船している。そのうち4回、難船に遭遇した。当時は、海が荒れると、小さな船は命がけの旅行になった。一世紀の地中海は、ローマ帝国によって、軍事と交易の目的で多くの都市に港が築かれた。パウロの時代は、客船がなく、貨物船での旅だった。船旅は、甲板に張った小さなテントで眠り、食事は自分で用意する不便なものだった。羅針盤さえなく、船の操作は視覚が頼りだった。帆船は追い風が吹けば、一日に150キロ、風がないときは、25~30キロほど進み、航行速度は風任せだった。パウロが地中海で大暴風に遭遇した時の様子を、このように描いている。「彼らは錨を断ち切って海中に落とし、同時に二丁の舵ろの留め綱を解き、風に前帆を揚げてから、その浜辺を目ざして進んだ。どの側も海に洗われる浅瀬に行き当たった時、彼らは船をそこに乗り上げてしまい、へさきはめり込んで動かなくなり、船尾は激しい勢いで崩れはじめた」。使徒27:40,41。

海の勇者バイキング船

バイキングは、8世紀末から11世紀まで続いた。確実な史料は少ないが、1880年バイキングの墳墓が発見されたことによって、当時の原形に近いものが修復され、博物館で見ることができる。この帆船は、10対ほどのオールを備えた細長い船だった。中世になると帆船は大型化し、マストは3本になり、帆の数は増え、逆風でも前進できるように帆の形が工夫された。

日本の帆船「朱印船」と「北前船」

豊臣秀吉の朝鮮出兵で、荒廃した国内の経済を立て直し、外交を正常化するために、1664年徳川家康は朱印船制度を確立した。台湾、中国、フィリピン、インドシナ、カンボジア、タイに派遣した。朱印状の発行により海賊船と区別された朱印船は、各国から歓迎され保護された。1635年に政策が変わり、海外渡航が禁止されると、朱印船は廃れた。

江戸中期から、日本の産業が発達するにつれ各地に特産物が登場する。北海道の昆布や鰊(にしん)、東北の米や木材などを、江戸や大阪に廻船する必要があった。そこで、北前船が登場する。海運網が海上で整い、酒田から青森、銚子に至って江戸に入る東廻り航路と、酒田から福浦、下関を通り、瀬戸内海を走って大阪に入る西廻り航路が確立した。船主たちは、大阪で衣類、砂糖、清酒などを買い、途中寄港しながら売却と買い込みをしながら日本海へ乗り出す。北海道には、鰊漁の盛期に合わせて到着する。北前船の利益は、20~2200両にもなったという。順調なときは大儲けするかたわら、遭難事故によって船や積荷や人命を失うという、浮き沈みの激しい商売だった。

北前船の乗組員によって民謡が広まる

北前船の乗組員は、港で風待ちをしなければならないことが多くあり、相宿(あいやど)になり、お国の民謡を酒席で楽しんだ。越後、松前、江差などの追分節(おいわけぶし)は北前船乗組員によって全国に広まった。北前船による、民謡の文化交流は興味深い。盛んであった帆船運輸は、明治初期には西洋式帆船や蒸気船が導入されることによって、また明治中期には鉄道輸送が加わる変革の中で、急速に衰退した。

帆船は今でも見る人にロマンを感じさせる。帆船が持つ意味やイメージには他に航海、波乗り、力強さ、超越、海洋、外界、遠征、港、錨、世界、安全、さらに成功、幸福、豊饒、信頼、休息、救済、国家、商人、水、雲、風など多くある。

参考文献:ものみの塔1999年3月15日号「海での危険」、世界の帆船博物館 東方出版2003(解説)杉浦昭典、日本全史 講談社 1991「北前船」
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富山市森家の北前船は「菱垣廻船」で、船中央の菱垣が特色富山市森家の北前船は
「菱垣廻船」で、
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1990年花の万博に展示された「越前若狭丸」1990年花の万博に展示
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